2011年11月21日
シューティングマッチへの参加
1995年:LTyama(記事作成は2003.8.8)
まず、この話は箕面フィールドに出会う以前の話であることをお断りしておく。
当時、サークルにはPte.さん、SGT_Kさん、私(LTyama)の3名しかまともに参加している人がいなかった。(その他何人かいたのだがほとんどが一見さんで帰ってこなかった。)
そこで、我々3人だけでどこかのゲームに行こうと思っていたのだが、当時は今ほどのコネも無く、さらには移動手段も公共交通機関以外は全く無かったことから遠くのフィールドに行くことは夢のまた夢であった。しかも、3人という少人数では身内のみでやってもゲームが成立しないわけで、その時はどのようにしてゲームを行うか?ということが非常に重要な事柄であった。
色々と考えているうちにゲームは出来ないにしてもエアガンを撃つ手段としてシューティングマッチがあり、大阪市内でそれが行われているのを私が気づいた。で、とりあえずは撃てないよりかはましか、ということで着の身着のままでシューティングマッチに参加することになったのである。
ここで当時のマッチ状況に触れておくと、当時は1993年ごろまでMGC(現在は倒産して存在しないメーカー)がアメリカのビアンキカップというシューティングマッチの日本版、その名もジャパンビアンキカップを開催していた。これは決められたコースにおいて高得点を出せばいいという競技であった。また、他にもスティールチャレンジというプレートをいかに早く倒すか、という競技も行われていた。
われわれが参加したのはこのどちらでもなく、IPSC(国際プラクティカルシューティング連盟 イプスゥィックと発音する)のマッチで、これの日本協会であるJPSAの事務局が大阪にあったことが理由となった。
JPSA主催によるIPSCの定例会は毎月1回大阪心斎橋にあるサンホールで行われており、その定例会とJPSAをバックアップしていたのがDSIクラブであった。
サンホールとDSIクラブという組み合わせから想像しやすいと思うが、これは現在も行われているショットショーの主催会場と主催者の組み合わせであり、こういった実績から現在のショットショーへと繋がってるのである。
話が逸れてしまったが、このような状況の中で私は当時新製品であったタニオ・コバ製USPを購入してマッチに参加した。(*1)
成績についてはマッチ専門でやっている人にはかなうわけも無く常に下のほうであったのだが非常に楽しかった。それはゲームが第三者との駆け引きが前提であるのに対してマッチは自分との戦いであるからであり、狙ったところに素早く正確に命中させることが出来たときの爽快感はなんともいえないものがあった。
このマッチ通いについては箕面フィールドに出入りするようになってからは自然と足が遠ざかり、結局は通わなくなってしまったのだが、最近は各地でIPSCだけでなく、さまざまな形式のマッチが開催されていることもあり、久しぶりに通ってもいいのではないかと思っている。
(*1):これについては色々と楽しい思い出がある。当時一般的になりつつあったWA製ガバやそれまでのスタンダードのMGC製ウィルソンLE系カスタムと異なりマッチ用のパーツが全く無かったUSPの為に私はスチレンボードでマガジンバンパーを製作したり、グリップを削って握りやすいように改造したりしていた。また、マガジンを床に落とした時に衝撃でマガジンが破裂してしまい、バラバラになったパーツを他のシューターの方々が協力して拾ってくれたこともいい思い出である。その事件の直後に強化型のマガジンが発売されたのは私の事件がある程度フィードバッグされた結果なのではないかとも思っている。
当時、サークルにはPte.さん、SGT_Kさん、私(LTyama)の3名しかまともに参加している人がいなかった。(その他何人かいたのだがほとんどが一見さんで帰ってこなかった。)
そこで、我々3人だけでどこかのゲームに行こうと思っていたのだが、当時は今ほどのコネも無く、さらには移動手段も公共交通機関以外は全く無かったことから遠くのフィールドに行くことは夢のまた夢であった。しかも、3人という少人数では身内のみでやってもゲームが成立しないわけで、その時はどのようにしてゲームを行うか?ということが非常に重要な事柄であった。
色々と考えているうちにゲームは出来ないにしてもエアガンを撃つ手段としてシューティングマッチがあり、大阪市内でそれが行われているのを私が気づいた。で、とりあえずは撃てないよりかはましか、ということで着の身着のままでシューティングマッチに参加することになったのである。
ここで当時のマッチ状況に触れておくと、当時は1993年ごろまでMGC(現在は倒産して存在しないメーカー)がアメリカのビアンキカップというシューティングマッチの日本版、その名もジャパンビアンキカップを開催していた。これは決められたコースにおいて高得点を出せばいいという競技であった。また、他にもスティールチャレンジというプレートをいかに早く倒すか、という競技も行われていた。
われわれが参加したのはこのどちらでもなく、IPSC(国際プラクティカルシューティング連盟 イプスゥィックと発音する)のマッチで、これの日本協会であるJPSAの事務局が大阪にあったことが理由となった。
JPSA主催によるIPSCの定例会は毎月1回大阪心斎橋にあるサンホールで行われており、その定例会とJPSAをバックアップしていたのがDSIクラブであった。
サンホールとDSIクラブという組み合わせから想像しやすいと思うが、これは現在も行われているショットショーの主催会場と主催者の組み合わせであり、こういった実績から現在のショットショーへと繋がってるのである。
話が逸れてしまったが、このような状況の中で私は当時新製品であったタニオ・コバ製USPを購入してマッチに参加した。(*1)
成績についてはマッチ専門でやっている人にはかなうわけも無く常に下のほうであったのだが非常に楽しかった。それはゲームが第三者との駆け引きが前提であるのに対してマッチは自分との戦いであるからであり、狙ったところに素早く正確に命中させることが出来たときの爽快感はなんともいえないものがあった。
このマッチ通いについては箕面フィールドに出入りするようになってからは自然と足が遠ざかり、結局は通わなくなってしまったのだが、最近は各地でIPSCだけでなく、さまざまな形式のマッチが開催されていることもあり、久しぶりに通ってもいいのではないかと思っている。
(*1):これについては色々と楽しい思い出がある。当時一般的になりつつあったWA製ガバやそれまでのスタンダードのMGC製ウィルソンLE系カスタムと異なりマッチ用のパーツが全く無かったUSPの為に私はスチレンボードでマガジンバンパーを製作したり、グリップを削って握りやすいように改造したりしていた。また、マガジンを床に落とした時に衝撃でマガジンが破裂してしまい、バラバラになったパーツを他のシューターの方々が協力して拾ってくれたこともいい思い出である。その事件の直後に強化型のマガジンが発売されたのは私の事件がある程度フィードバッグされた結果なのではないかとも思っている。
Posted by Rumblefish OB会 at 00:25│Comments(0)
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