2011年11月21日
箕面フィールド最後の日
1998年:LTyama(記事作成は2003.2.13)
サークルがその戦場を京都の原谷フィールドからよりゲーマーの多く集まる箕面フィールドに移動してから4年が経過したころ、このフィールドにも最後の日がやってくることとなった。
それは確か1998年の盆休みあたりだったと記憶している。
ちょうどその時は私が休暇で大阪に行ったときであり、ちょうどいい具合にその前日の晩から夜戦、翌日には昼戦が開催されるということから、夜戦用の装備一式と昼戦用の装備を用意するともに新装備としてマルゼンAPS-2スポーターMk1をショップで購入して持って行った。
夜戦については滞りなく終了し、仮眠を取ってからのそのそと起き始めAPS-2の零点調整をしようとホップをかけながら撃ち続けていた。
そしてしばらくすると人がだんだん集まりそろそろゲームが始まるかな?といった時にフィールドには見慣れない老人とゲーマーらしくない人らが何人かやってきた。
なんだろう?と思いチームの代表の人と話しているのを聞いてみるとどうやらその老人はフィールドの一部分の地主で、同行していたのは同じくフィールドの一部の所有者である市の職員とのことであった。
その老人(つまり地主は)セーフティーゾーン一帯に掘られていた自転車のトライアル練習用と思われる穴(無論ゲーマーとは完全に無関係)を見ると、「勝手に塹壕まで掘ってしまって」みたいなことをつぶやいていた。(当然その直後にその穴はゲーマーとは無関係であることの説明を受けて納得していた)
それから地主さんと市の職員らはたまたまフィールドで音頭をとっていた人に対し、今後このフィールドでのサバイバルゲームは控えるとともに、今回ここに来ていない他のチームの方にもその旨を伝えてほしいと告げていた。
つまり、このときを境にゲームフィールドとしての箕面フィールドは公式にはその幕を下ろしたといえる。
箕面フィールドの歴史はさかのぼると10年以上前のガスガン全盛期のころから様々なチームにより使用されていた。
聞いた話によると当初そこに入り込んでいたのはサバイバルゲーマーではなく四輪駆動車愛好家で、その中を車で走り回っていたことから憩いの場所としての森林にかなりの被害が出ていたとのことであった。当時それに悩まされていたフィールドの一部分の地主は四輪駆動車が入ってこなければサバイバルゲーマーに使われてたほうがましだ、ということでサバイバルゲーマーがフィールドを使用することを黙認してたらしい。
というのも当時の出入りしていたゲーマー自体はそれほど多くなく、その程度であれば森にも問題は生じないだろろう、との判断だったとのことである。(こう判断した理由は現場にて地主さんから直接聞いた。)(*1)
しかしそれから年月が経ち、そこが関西でも屈指のフィールドとして有名になるとともにそこに出入りするゲーマーの数も増え、フィールド入り口付近に駐車する車の数が増えてきたことから車の通行に障害がでてきた。そしてそれとともに大勢が出入りすることで森林にも徐々に影響が出てきたことから地主さんとフィールドの一部を所有する市の職員としてはこれ以上は許容できない、との判断に至ったとのことであった。
私が箕面フィールドに初めて行ったのは95年の夏ごろで、そこから卒業までの3年間のゲームのほとんどをそのフィールドで行ってきたことから個人的にはゲーマーとしての自分を育ててくれた場所であると思っている。これについてはサークル内で箕面フィールドを体験したことのあるメンバーすべてが同意してくれるのではないだろうか?
正面攻撃から裏回りまで可能な縦にも横にも広いフィールド、多すぎず少なすぎずの適度な植生。正面からの攻撃ならば安全に見ることのできた広いセーフティーゾーン、そして周辺からやってきた海千山千のゲーマー達。
当時を思い出す今でも無くなったことを物悲しく思える箕面のような場所はこれから何年続くかわからないゲーマー生活の中でも見つからないのではないかと思っている。
そして、たまたまそのフィールドの最後の日に居合わせたことに何かしらの運命的なものを感じずにはいられないのである。
*1:箕面フィールドの付近はなぜか土地の権利関係が複雑で大阪府の所有地もあれば箕面市の所有地もあり、さらには複数の私有地が入り乱れた状態となっていた。そのため使用に関しては所有者からの一貫した意見がこれまで出たことがなかったのである。ゲーマー側も一部チームで正式に使用許可を得ようとする動きがあったのだが担当となる所有者が誰であるのかはっきりとしないことからこれまで双方ともに黙認という状態での使用が続いていたとのことであった。
それは確か1998年の盆休みあたりだったと記憶している。
ちょうどその時は私が休暇で大阪に行ったときであり、ちょうどいい具合にその前日の晩から夜戦、翌日には昼戦が開催されるということから、夜戦用の装備一式と昼戦用の装備を用意するともに新装備としてマルゼンAPS-2スポーターMk1をショップで購入して持って行った。
夜戦については滞りなく終了し、仮眠を取ってからのそのそと起き始めAPS-2の零点調整をしようとホップをかけながら撃ち続けていた。
そしてしばらくすると人がだんだん集まりそろそろゲームが始まるかな?といった時にフィールドには見慣れない老人とゲーマーらしくない人らが何人かやってきた。
なんだろう?と思いチームの代表の人と話しているのを聞いてみるとどうやらその老人はフィールドの一部分の地主で、同行していたのは同じくフィールドの一部の所有者である市の職員とのことであった。
その老人(つまり地主は)セーフティーゾーン一帯に掘られていた自転車のトライアル練習用と思われる穴(無論ゲーマーとは完全に無関係)を見ると、「勝手に塹壕まで掘ってしまって」みたいなことをつぶやいていた。(当然その直後にその穴はゲーマーとは無関係であることの説明を受けて納得していた)
それから地主さんと市の職員らはたまたまフィールドで音頭をとっていた人に対し、今後このフィールドでのサバイバルゲームは控えるとともに、今回ここに来ていない他のチームの方にもその旨を伝えてほしいと告げていた。
つまり、このときを境にゲームフィールドとしての箕面フィールドは公式にはその幕を下ろしたといえる。
箕面フィールドの歴史はさかのぼると10年以上前のガスガン全盛期のころから様々なチームにより使用されていた。
聞いた話によると当初そこに入り込んでいたのはサバイバルゲーマーではなく四輪駆動車愛好家で、その中を車で走り回っていたことから憩いの場所としての森林にかなりの被害が出ていたとのことであった。当時それに悩まされていたフィールドの一部分の地主は四輪駆動車が入ってこなければサバイバルゲーマーに使われてたほうがましだ、ということでサバイバルゲーマーがフィールドを使用することを黙認してたらしい。
というのも当時の出入りしていたゲーマー自体はそれほど多くなく、その程度であれば森にも問題は生じないだろろう、との判断だったとのことである。(こう判断した理由は現場にて地主さんから直接聞いた。)(*1)
しかしそれから年月が経ち、そこが関西でも屈指のフィールドとして有名になるとともにそこに出入りするゲーマーの数も増え、フィールド入り口付近に駐車する車の数が増えてきたことから車の通行に障害がでてきた。そしてそれとともに大勢が出入りすることで森林にも徐々に影響が出てきたことから地主さんとフィールドの一部を所有する市の職員としてはこれ以上は許容できない、との判断に至ったとのことであった。
私が箕面フィールドに初めて行ったのは95年の夏ごろで、そこから卒業までの3年間のゲームのほとんどをそのフィールドで行ってきたことから個人的にはゲーマーとしての自分を育ててくれた場所であると思っている。これについてはサークル内で箕面フィールドを体験したことのあるメンバーすべてが同意してくれるのではないだろうか?
正面攻撃から裏回りまで可能な縦にも横にも広いフィールド、多すぎず少なすぎずの適度な植生。正面からの攻撃ならば安全に見ることのできた広いセーフティーゾーン、そして周辺からやってきた海千山千のゲーマー達。
当時を思い出す今でも無くなったことを物悲しく思える箕面のような場所はこれから何年続くかわからないゲーマー生活の中でも見つからないのではないかと思っている。
そして、たまたまそのフィールドの最後の日に居合わせたことに何かしらの運命的なものを感じずにはいられないのである。
*1:箕面フィールドの付近はなぜか土地の権利関係が複雑で大阪府の所有地もあれば箕面市の所有地もあり、さらには複数の私有地が入り乱れた状態となっていた。そのため使用に関しては所有者からの一貫した意見がこれまで出たことがなかったのである。ゲーマー側も一部チームで正式に使用許可を得ようとする動きがあったのだが担当となる所有者が誰であるのかはっきりとしないことからこれまで双方ともに黙認という状態での使用が続いていたとのことであった。
Posted by Rumblefish OB会 at 00:27│Comments(0)
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