2011年11月21日
ナイトハイク
1997年:pinokio(記事作成は2003.4.26)
立命館は京都衣笠と滋賀県草津にキャンパスを構えている。二つのキャンパス間の交流を図るために行われていた毎年恒例イベントがナイトハイクだ。キャンパス間の距離は約32キロあり、この距離を学生や地域住民の参加者含め1500人ほどが深夜踏破する。通常22:00に衣笠出発~翌朝07:00ごろ草津着のペースで歩いた。長距離走でもやっていないかぎり、普通の人が一日に30キロ以上歩くことはマズ無いだろう。そして、97年から2001年最後のナイトハイクまで我々ランブルフィッシュのメンバーは精神・体力・連帯心の向上及びチームの宣伝を目的として参加しつづけた。(※1)
ナイトハイクは様々な個人や団体が参加しいたために何やら不思議な着ぐるみや仮装をした参加者が大勢いたが、そんな中でも全員戦闘服姿で挑んだ我々は一際異彩を放っていただろう。特にE君が持参したサイリュームは好評で、その不思議な光に多くの参加者が驚きの声を上げていたのが印象に残る。これ以来サイリュームはナイトハイク参加時のランブルフィッシュ必須アイテムとなった。
97年度にはSIG551やステアーなどのメインアームを、翌年度以降は自主規制しつうもコッソリとサイドアームを持ち込むなど参加者の士気は非常に高く、無意味にハイになっていたのを覚えている。人間は夜中に事を始めようとすると不思議な高揚感が得られるものだ。しかし、当初は京都御所内で小銃をもって突撃発揮してみたりと元気いっぱいだが、蝉丸が百人一首で詠った逢坂の関にたどり着く頃には疲労や足の痛みに苦しむようになる。逢坂の関の急な上り坂とそれに続く下り坂の連続は激しく体力を奪い、足は靴擦れで傷だらけになる。私も97年度は新品のジャングルブーツ(買って3日目)でナイトハイクに参加し大変な苦労をした。足が痛くてティッシュをブーツのなかにたくさん詰め込み靴擦れの激痛を何とかしようとしたが、最後はとにかく気合と精神力の勝負になってくる。(※2)
意外なのが、小柄な女の子やお年寄りが苦も無く山を超えていくが、逆に見るからに屈強そうな男たちがへたばっていたりするのをよく見かけた。どうやら体力よりも出力重量比が重要らしい。多分軽いほうが足腰にかかる負担が少ないのだろう。ナイトハイクには歩くだけではなく、道中に様々なイベント用意されていた。多様なゲームが有り、上手くいくと水やお菓子が配給さるのだ。中でもゴム輪を使った射的ゲームにはチームの面子がかかっていた為、皆必死っだった。高得点ターゲットを落とすために、メンバー全員の射撃を一点に集中させるなどチームワークをフルに発揮して成功を収めることが出来た。
ナイトハイクでの最大の成果はその宣伝効果の大きさであろう。ナイトハイクに戦闘服で参加した集団としてその名声は轟き、立命館にもサバイバルゲームサークルがあるという認識が広く学内に広まった。宣伝ビラを作成するために学部事務局の管理している輪転機を借りた際に、「あー、ナイトハイクに迷彩服で参加した人ですね♪」とその知名度のおかげで快く協力を得ることが出来た事は宣伝効果が上手く発揮された好例だ。 ドライブ中の一般人から「自衛隊ですかー?」とかなりしつこく呼びかけられ、対応に苦労する場面もあったが、全体としては大きなトラブルもなく非常に楽しく過ごすことが出来た。辛いことも多かっただけに、ナイトハイクは私のランブルフィッシュでの活動のなかでも1番に上げていいほど思い出深い出来事だ。ただ、また同じ事をしたいかと聞かれたら断るだろう。別に歩くのが嫌な訳ではないが…、よくもまー戦闘服にYサスまで締めて集団で京都市内を歩いたりしたもんだと、我ながら当時の自分を疑ってしまう。因みに、SGT_YAMA(現LTyama)氏は社会人になってからもナイトハイクに参加するなど(もちろん戦闘服姿)、その果敢さには敬服してしまう偉大な方だ。
(※1)99年度は諸藩の事情により参加見送り。
(※2)この時履いていたジャングルブーツは今でも愛用しており、すっかり自分の足の一部の様に馴染んでいる。ブーツは履き込むほど履きやすくなることがよく解った。
ナイトハイクは様々な個人や団体が参加しいたために何やら不思議な着ぐるみや仮装をした参加者が大勢いたが、そんな中でも全員戦闘服姿で挑んだ我々は一際異彩を放っていただろう。特にE君が持参したサイリュームは好評で、その不思議な光に多くの参加者が驚きの声を上げていたのが印象に残る。これ以来サイリュームはナイトハイク参加時のランブルフィッシュ必須アイテムとなった。
97年度にはSIG551やステアーなどのメインアームを、翌年度以降は自主規制しつうもコッソリとサイドアームを持ち込むなど参加者の士気は非常に高く、無意味にハイになっていたのを覚えている。人間は夜中に事を始めようとすると不思議な高揚感が得られるものだ。しかし、当初は京都御所内で小銃をもって突撃発揮してみたりと元気いっぱいだが、蝉丸が百人一首で詠った逢坂の関にたどり着く頃には疲労や足の痛みに苦しむようになる。逢坂の関の急な上り坂とそれに続く下り坂の連続は激しく体力を奪い、足は靴擦れで傷だらけになる。私も97年度は新品のジャングルブーツ(買って3日目)でナイトハイクに参加し大変な苦労をした。足が痛くてティッシュをブーツのなかにたくさん詰め込み靴擦れの激痛を何とかしようとしたが、最後はとにかく気合と精神力の勝負になってくる。(※2)
意外なのが、小柄な女の子やお年寄りが苦も無く山を超えていくが、逆に見るからに屈強そうな男たちがへたばっていたりするのをよく見かけた。どうやら体力よりも出力重量比が重要らしい。多分軽いほうが足腰にかかる負担が少ないのだろう。ナイトハイクには歩くだけではなく、道中に様々なイベント用意されていた。多様なゲームが有り、上手くいくと水やお菓子が配給さるのだ。中でもゴム輪を使った射的ゲームにはチームの面子がかかっていた為、皆必死っだった。高得点ターゲットを落とすために、メンバー全員の射撃を一点に集中させるなどチームワークをフルに発揮して成功を収めることが出来た。
ナイトハイクでの最大の成果はその宣伝効果の大きさであろう。ナイトハイクに戦闘服で参加した集団としてその名声は轟き、立命館にもサバイバルゲームサークルがあるという認識が広く学内に広まった。宣伝ビラを作成するために学部事務局の管理している輪転機を借りた際に、「あー、ナイトハイクに迷彩服で参加した人ですね♪」とその知名度のおかげで快く協力を得ることが出来た事は宣伝効果が上手く発揮された好例だ。 ドライブ中の一般人から「自衛隊ですかー?」とかなりしつこく呼びかけられ、対応に苦労する場面もあったが、全体としては大きなトラブルもなく非常に楽しく過ごすことが出来た。辛いことも多かっただけに、ナイトハイクは私のランブルフィッシュでの活動のなかでも1番に上げていいほど思い出深い出来事だ。ただ、また同じ事をしたいかと聞かれたら断るだろう。別に歩くのが嫌な訳ではないが…、よくもまー戦闘服にYサスまで締めて集団で京都市内を歩いたりしたもんだと、我ながら当時の自分を疑ってしまう。因みに、SGT_YAMA(現LTyama)氏は社会人になってからもナイトハイクに参加するなど(もちろん戦闘服姿)、その果敢さには敬服してしまう偉大な方だ。
(※1)99年度は諸藩の事情により参加見送り。
(※2)この時履いていたジャングルブーツは今でも愛用しており、すっかり自分の足の一部の様に馴染んでいる。ブーツは履き込むほど履きやすくなることがよく解った。
Posted by Rumblefish OB会 at 00:27│Comments(0)
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